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モノカキブログ

日記兼更新記録。  最新更新分までのネタバレがあることはありますが、隠してありますので、どうぞご安心を。

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  • 04/29/19:19

かなり意味不明ながら、創作について考えた

創作についてつらつら考えてみたのですが、書いてみたのはいいんですが、自分の考えをまとめるために書いたので、かなり意味不明です。
しかも長いですが、気が向いたらお読みくださいましまし。


七都という物語はもちろんフィクションです。
この物語はフィクションです、なんて注意書きをいれる必要もないほどに、何をどう見てもどこまでもフィクションですが。
私にとっては、ある意味ノンフィクションであるのだと思います。

あの物語の中で書いてきた、登場人物たちの感情の殆どは、実際に私が抱いたことのある感情。
中には、私には想像しきれなくて一般論的に書いたものや(私、幼児虐待はさすがにやってないし、書いてみてつくづくわかったけど、実際にやってしまった人の気持ちがやっぱり想像しきれない……。多分私に思いつけないほどに原因が深いんだろう)、私ではなく私の身近な人が味わった感情、それを伝聞という形で私の中に取り込んだものも多少はありますが、それでも、多分80%以上は、私の中に存在する感情だと思うのです。

私の書き方はそういう書き方なので、小説を書くようになってから、恋愛をしても、仕事をしても、辛い目に遭っても楽しいときも、それが必ず頭の片隅にあって、魚拓みたいに感情の形を意識的に残してきています。
それが原因で、もっと手前で手を引くべきだった恋愛にどこまでも飛び込んで、ものすごく痛い目を見たこととかもありますし、あとに残るようなトラウマも経験しましたが、それでも、今まだ私はそれで死んでもいなくて生きていますから、やっぱり失敗はしていない、と思えてしまうのです。
そして、そのときに体験した感情なら、私は書くことはできる。書くための引き出しを増やしていくって言うのは、私のほんとうのライフワークです。
目的があると、それまで無為に思えていたことにも意味が見いだせてくるわけで、感情の引き出しを作るためにどんな感情も味わってやる!と思うと、不思議と、悲しい思いをしても、怒りに震えても、痛い目を見ても、これでひとつ引き出しが増えた、損なんてしてないわ、得をした、うふふ。と思えるので、かなり精神衛生上役だつ趣味でもあります。

ものを書く、という趣味のおかげで、多分私の人生は、ものすごく貪欲になったのです。特に感情面に関して。
どんなんでもいいから、できるだけ多くの感情の形を知りたいって思う。

七都という物語に関して考えたのですけど、特に三人のヒロインの存在は、私という存在を三分割したようなものだと思っています。
書き進めるまでは、暫くそのことに気づきませんでした。
登場人物たちと自分という存在とは別物だと思って書いていたけれど、自分の書いている小説の世界が私にとって自由になればなる程、近くなれば成る程、遠ざけることが可能になり、同時に自分の奥深くに入り込んでくる、でもその奥深くに入り込んでくるっていうのはある意味錯覚で、入り込んでくるわけではなくて、内面の底の底と直結してくるようで、アクセスする領域が、表層部分から深い所に入っていく。そういうことなんだと思う。
創作というものは私にとっては結局、外からやってくるものではなく(スイッチを入れる刺激は外からやってくるのですけど)、自分の内側をただ奥に奥に掘り進んでいくもので、表面の質量は変化がないのにもかかわらず、奥に入れば入るほどブラックホールみたいに内面は膨張し、埋まっていく。
でも逆に隙間というような、その空気に触れているけれど質量がない何かに満たされている空間が増えてもいるわけで。

とにかく、七都のヒロイン三人は、私の、顕在意識、潜在意識、インナーチャイルド、って三分割な気がする。
シュタイナーによると、物語によって人は癒されるんだそうで、創作って言う趣味は、私にとってはそれがとてもわかりやすい。私は多分、私を癒すために物語を作っている。

なもので、多分、私にとって創作ってものは、多分80%くらいの割合で、自分にベクトルを向けた作業であるわけですが、残りのパーセンテージで、やっぱり読んでくれた人に楽しんでもらいたいっていう気持ちや、面白いっていわれたいというお花畑じみた夢もはいっているんだと思うんです。
だけど、その残20%のうちの何割かは、もしかしたら、七都という物語を通した上で、他者からの承認を得たいという欲望のなのかも知れないとも思いました。
そして、作った物語を自分だけで楽しまず、こうしてたくさんの人の目に触れるところに出していくという私の行動のベクトルは、結局、自分と利害関係のない不特定多数の第三者から、その承認を得たいということなんだろうかとも。
これはもう、人それぞれの気質によるものだと私は思うんだけど、もしかしたら、プロを指向するという人の中には、これを目的とする人もいるんだろうか?
私が昔、プロの作家になりたい!って思っていたときは、この欲求が強かったんだと思う。もちろんそれだけではなくて、私の思いを、できるだけたくさんの人に届けることができたら、ということもありましが。
そしてプロになりたいっていう思いがなくなったのは、外側に向かっていたその欲求の行き先が、自分の内側に向いた時。ただ、自分の好きな物語を、好きなように自分のために書きたいって思った時でした。そして、ネットという発表場所を得て、プロにならなくても、自分の思いを他者に伝えることが、まあできるようになったということもあります。

何にしても、私が創作という活動をすることにより求めていたものが、結局は自分という存在の認知だったのだとすれば(そしてそれはきっとかなりそうだと思う)、他者の目を通して認知するという作業に厭いたのか、それともそうして認知する部分はもう満たされたのか、いずれにしても、何故か今はそれが外にそれほどは向かない。

自分探しって言葉を私はずっと馬鹿にしてきていたけど。自分は外にあるものじゃない、内側にあるものだ、って思ってきたから、そうだったんだけど。
結局は私もそれを外に求めたんだろうか。そして、外にないことを知って、内側に向かったのか。

なんかもうよくわからなくなってきたけれど、私にとっての創作活動における幸せは、ぶっちゃけて言えば、自分を探り(目標としては、過不足なく自分という存在を認知すること)、自分が萌え(ほんとうは自分が自分のいちばんの快感を生み出すポイントを知っている)、他者からの少々の賞賛を浴びたい(内側から生み出したものからだけでなく、単純に外からの快感も得たい)、っていう身も蓋もないもののような気がする。

こうして自分の創作というものについての考えをまとめてみると、とことんまで私は、プロには向かないと思ったりする。
でも、文章を書くっていうことを、というよりは、私は私を表現する手段を自分なりに得られていると思えることが、なんて幸せなんだろうと思う。
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