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モノカキブログ

日記兼更新記録。  最新更新分までのネタバレがあることはありますが、隠してありますので、どうぞご安心を。

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  • 09/21/09:57

何を書いているかというと

なんかしょっちゅう同じようなことを書いている気がするのですが、何度もこんな内容ばかり書いていると言うことは、きっと私にとっての重要なテーマなのでしょう。

私も長いこと、趣味で小説など書いているわけですが、表現というのは、とにかく中に中に向いていくものだなあと感じます。
私は小説を本格的に書き始める前は音楽をやっていたのですけど、プロの音楽やを目指して日夜がんばっていた時期もありましたのですけど、その頃の私は若かったこともあって、私の音楽は、三分の二くらいは、確かに私の内側に向いていたけれど、三分の一くらいは外側に向いていた、しかも競争というところに。
どうやら私は基本的に競争が好きな性格をしているようです。

私が今小説を書いていて、うれしいなあ、楽しいなあ、と思うのは、その、外側、しかも競争に向いている部分が、あんまりないことです。
私は、小説を書いてるときは、内側に意識が向かいきってます。
表現っていうのは、自分の内側と向き合うことだと私は思います。だから、掘り進むように、ひたすら自分の奥に奥に潜っていく。その作業です。
どんどん掘り進んでったらこんなものがあった、もっと掘り進んでったらこんなものが、っていうように、芋づる式に出てきます。自分で書いたものを読んで、私は私の中にあった欲求を知ります。
私の書いたものは、隅の隅まで、私でできています。
それ以外のものはあんまり入っていません。特に私はそういう書き方をするのが好きです。
だから私が、小説を書くということに関して、今のような楽しみ方をしている限り、商業作家を目指すことはないでしょう。今の私の満足が、外に出して外からもらうよりも、自分の内側に向かうことのほうにあるからです。

私は、面白い作品を書く人の内側はきっと面白いと思うし、つまらない人が書くものはどんなにがんばったってつまらないと思っている。
私は別に、取り立てて面白すぎる人間ではないので、私なりのものしか書きませんが、そんな私でも日々、小説を書くために、いろんな経験とそれに付随する感情を味わい尽くすことを貪欲に求めてきたわけです。
でも私、今のこの感覚でずっと生きていくと、自分が死ぬ瞬間まで、「これで自分が死ぬってことがどんなことかわかった、書く引き出しが増えた!」なんて考えてそうだってことに、こないだ気づきました。死ぬ瞬間自分が考えるだろうことを想像してみたら、それだった。天国で書くんでしょうか。

ってなるとね。よく考えると、その、小説を書くために人生経験を積むぞ!っていうのは、鶏が先か卵が先かみたいな感じで。
大体が人生経験を積んだから何かを書きたくなるわけだし。
だけど、ちょっと冷静に考えたらメリットもないしこれはやらないよね、絶対リスクが大きいし、でもちょっと今まで自分が知らないことを知ることができるかも知れない、っていうようなことに頭から飛び込んじゃうようなこんな趣味は(絶対これは私の趣味だと思う)、ものを書いているから、っていう大義名分がなければ私だってそうそうやらない。
絶対これはありえないだろうと思ってる恋愛に、取り敢えず持ってるもの全部かなぐり捨ててとびこんでみるとか、そういうことはやっぱり、書いてなければやらなかった。
ひきだしがふえる、ひきだしがふえる、けけけ。と呪文のように唱えながら、この今の痛い思いは全部そのうちなんかに使える、身になる、だから痛いばっかりじゃないもん、もうけ~。なんて自分に言い聞かせながらほんとうに、しばらくは心に後遺症が残るくらい痛い目を見たりして。
でも、そんな状況からの回復も、またひきだしにたまっていく。そのコレクションが増えるのをみて私はぐふふと笑う。また書けるものが増えた……。
書きたい引き出しお化けです。

そして思ったんだけど、こうして引き出しの中に一所懸命ため込みつづけてきたものは、きっと私の人生すべてを自由に豊かにしています。
小説を書くという作業は、霧のようになってたゆたっているそれらを、再構築して形作って、色をつけて、私の目に見せているってことなんだと思う。
結局は、私の表現活動というものは、私の中に向けている。
そんなのただのマスターベーションじゃんと思われるかもしれません。でもだからなんだ。
人の一大事業は、まず自分を幸せにすること。他人を幸せにするのはそれからだと私は思います。

私がそう思ってるから、私の小説はそういう風に書かれている気がする。
「七都」って、まず七都がそばで支えてくれてる人の力を借りて(特にそのきっかけが、聖羅の、「わたしがそばにいるわ」だったのかも)自分が自立して幸福を得たところで、本質的に自分の面倒を自分で見ることができていない、あまりにも欠落の多い聖羅という人が、七都とそれから他の周囲の人たちからの愛情を確認して、自分の足で立って、幸福を確認する話なのかななんて思いました。
人という字は人と人が支え合って、なんて言いますけど。それはこういうことなんじゃないかなー。
そして結局は、他人の力だけで自分がしあわせになれることはないってことを書いてるわけです。
他人の優しさや愛情を確認しながら、自分の力で立つことでしか、幸福にはなれないってこと。それが私が三十余年生きてきて知った一番大事なことのうちのひとつだから、そういうことを書くことになってしまった。

私は私が書きたくないものは書きません。
私は書きたくて書きたくて仕方がない小説ばかりを書いています。
幸せです。
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