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モノカキブログ

日記兼更新記録。  最新更新分までのネタバレがあることはありますが、隠してありますので、どうぞご安心を。

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  • 04/27/10:25

誕生日です。

今日は誕生日です。
おめでとう私!

35歳になりました。

今でも何となくおぼえてるんですが、5歳の誕生日の日、まだちっちゃかった私、はじめて誕生日というものを意識したときだったのかな、4歳の誕生日の最後の日に、鏡を見ながら、明日になったら違う顔になってるに違いないと思いました。
で、朝起きて、5歳になった!って思って、鏡を見たら、何もかわってなくて、えー。って思ったのです。
あれから30年経ちました。

35年、いろんなことがあったけれど、健康に、楽しく、幸せに生きている今日に、感謝しています。

そして、夫と、息子と、両親と弟と、友達みんなに感謝です。
愛してくれてありがとう。
幸せにしてくれてありがとう。
同じ時間を一緒に生きてくれてありがとう。

そして、会ったこともない七都の読者様方が、私の執筆の喜びを支えて下さっています。
こんなにたくさんの人が、私の書いたものを読んでくれることがあるなんて、思いもしなかった。ほんとうにありがとうございます。

35年前の今頃、きっと、今日生まれるぞって思いながら母のおなかの中でわくわくしていた自分のことを考えます。
今幸せに生きています。きっと生まれる前の自分は、それを知っていたんじゃないかって思う。なんとなく。
私にとって、幸せっていうのは、苦労がないこと、大変じゃないことと同意ではないです。
私が私を見ていること、向き合っていること、そして私が私の人生を自分の力で望むように生きようとしていることがわかることが、幸せっていうものかなと思います。私にとって、生きてる!っていう喜びは、それなんです。

34歳になった日より、一年分、ちゃんと成長している気がします。
七都も、連載終了はまだですが、34歳のうちにエンドマークをつけることができました。
今年も一年、充実した、素晴らしい年を過ごせますように。
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何を書いているかというと

なんかしょっちゅう同じようなことを書いている気がするのですが、何度もこんな内容ばかり書いていると言うことは、きっと私にとっての重要なテーマなのでしょう。

私も長いこと、趣味で小説など書いているわけですが、表現というのは、とにかく中に中に向いていくものだなあと感じます。
私は小説を本格的に書き始める前は音楽をやっていたのですけど、プロの音楽やを目指して日夜がんばっていた時期もありましたのですけど、その頃の私は若かったこともあって、私の音楽は、三分の二くらいは、確かに私の内側に向いていたけれど、三分の一くらいは外側に向いていた、しかも競争というところに。
どうやら私は基本的に競争が好きな性格をしているようです。

私が今小説を書いていて、うれしいなあ、楽しいなあ、と思うのは、その、外側、しかも競争に向いている部分が、あんまりないことです。
私は、小説を書いてるときは、内側に意識が向かいきってます。
表現っていうのは、自分の内側と向き合うことだと私は思います。だから、掘り進むように、ひたすら自分の奥に奥に潜っていく。その作業です。
どんどん掘り進んでったらこんなものがあった、もっと掘り進んでったらこんなものが、っていうように、芋づる式に出てきます。自分で書いたものを読んで、私は私の中にあった欲求を知ります。
私の書いたものは、隅の隅まで、私でできています。
それ以外のものはあんまり入っていません。特に私はそういう書き方をするのが好きです。
だから私が、小説を書くということに関して、今のような楽しみ方をしている限り、商業作家を目指すことはないでしょう。今の私の満足が、外に出して外からもらうよりも、自分の内側に向かうことのほうにあるからです。

私は、面白い作品を書く人の内側はきっと面白いと思うし、つまらない人が書くものはどんなにがんばったってつまらないと思っている。
私は別に、取り立てて面白すぎる人間ではないので、私なりのものしか書きませんが、そんな私でも日々、小説を書くために、いろんな経験とそれに付随する感情を味わい尽くすことを貪欲に求めてきたわけです。
でも私、今のこの感覚でずっと生きていくと、自分が死ぬ瞬間まで、「これで自分が死ぬってことがどんなことかわかった、書く引き出しが増えた!」なんて考えてそうだってことに、こないだ気づきました。死ぬ瞬間自分が考えるだろうことを想像してみたら、それだった。天国で書くんでしょうか。

ってなるとね。よく考えると、その、小説を書くために人生経験を積むぞ!っていうのは、鶏が先か卵が先かみたいな感じで。
大体が人生経験を積んだから何かを書きたくなるわけだし。
だけど、ちょっと冷静に考えたらメリットもないしこれはやらないよね、絶対リスクが大きいし、でもちょっと今まで自分が知らないことを知ることができるかも知れない、っていうようなことに頭から飛び込んじゃうようなこんな趣味は(絶対これは私の趣味だと思う)、ものを書いているから、っていう大義名分がなければ私だってそうそうやらない。
絶対これはありえないだろうと思ってる恋愛に、取り敢えず持ってるもの全部かなぐり捨ててとびこんでみるとか、そういうことはやっぱり、書いてなければやらなかった。
ひきだしがふえる、ひきだしがふえる、けけけ。と呪文のように唱えながら、この今の痛い思いは全部そのうちなんかに使える、身になる、だから痛いばっかりじゃないもん、もうけ~。なんて自分に言い聞かせながらほんとうに、しばらくは心に後遺症が残るくらい痛い目を見たりして。
でも、そんな状況からの回復も、またひきだしにたまっていく。そのコレクションが増えるのをみて私はぐふふと笑う。また書けるものが増えた……。
書きたい引き出しお化けです。

そして思ったんだけど、こうして引き出しの中に一所懸命ため込みつづけてきたものは、きっと私の人生すべてを自由に豊かにしています。
小説を書くという作業は、霧のようになってたゆたっているそれらを、再構築して形作って、色をつけて、私の目に見せているってことなんだと思う。
結局は、私の表現活動というものは、私の中に向けている。
そんなのただのマスターベーションじゃんと思われるかもしれません。でもだからなんだ。
人の一大事業は、まず自分を幸せにすること。他人を幸せにするのはそれからだと私は思います。

私がそう思ってるから、私の小説はそういう風に書かれている気がする。
「七都」って、まず七都がそばで支えてくれてる人の力を借りて(特にそのきっかけが、聖羅の、「わたしがそばにいるわ」だったのかも)自分が自立して幸福を得たところで、本質的に自分の面倒を自分で見ることができていない、あまりにも欠落の多い聖羅という人が、七都とそれから他の周囲の人たちからの愛情を確認して、自分の足で立って、幸福を確認する話なのかななんて思いました。
人という字は人と人が支え合って、なんて言いますけど。それはこういうことなんじゃないかなー。
そして結局は、他人の力だけで自分がしあわせになれることはないってことを書いてるわけです。
他人の優しさや愛情を確認しながら、自分の力で立つことでしか、幸福にはなれないってこと。それが私が三十余年生きてきて知った一番大事なことのうちのひとつだから、そういうことを書くことになってしまった。

私は私が書きたくないものは書きません。
私は書きたくて書きたくて仕方がない小説ばかりを書いています。
幸せです。

里帰り中です

今里帰り中で、更新ができません、ごめんなさい!
月曜日に更新すると思います~。

少子化問題

6-22更新いたしました。そして、二十万ヒットありがとうございます。とてもうれしいです。いつも読んで下さってる皆様のおかげです。

ところで、先日、「少子化について」というお題で、毎日新聞さんの取材を受けました。日曜日の朝刊の一面にわたくし実名で載っちゃいました(笑)

そのときに、私自身もいろいろ考えたことがありまして、せっかくブログがあるんだから、頭の中身を整理するためにも書いてみようかな~なんて。
少子化について、というか、私が考える、社会について論、になってしまった気もする。
私の書いている小説とは直接には関係がないかも知れませんが、こどもを持ってない人も、読んでくれたらうれしいです。


少子化っていってるけど、少子化はまずいってみんな言うけど、特にこどもを持ってる母は言うけど。
どうして少子化はまずいのか、ちょっと掘り下げて考えてみようと思います。

私は、最終的には、少子化が進んで、人口が減ること自体は別に構わないと思っています。
今の日本の国土に、この人口は多いです。それはちょっと落ち着いて考えてみればわかるでしょう。日本って、他の国と比べても、一平方メートル当たりの居住人数が多い。
こんなにマンションだらけの国ですから。
だから、人口は、ほんとうはもう少し減っていいのではないかと。

そして、今、少子化少子化なんとかしなきゃと政府その他が言っているのは、要するに日本という国の経済活動の方の問題を言ってるのだと思います。
ですがとりあえずそれは置いといて、私は、今を生きている子どもたちと、こどもを持つ親にとって、少子化ということの、何が問題だと感じているのかについて、語ってみようと思います。
そして、これはもしかしたら、母親側から見た偏った意見であるかも知れません。私は現在子育て真っ最中なので、その偏り加減があまりわからないのです。

私が思うに、子どもを育ててる側からすれば、少子化=子どもが減る=「子ども」という存在が、世間でマイノリティな存在になってしまう。この不健全さがよくないのではないでしょうか。
子どもを抱えて電車に乗るお母さんは、大概、子どもが騒がないかびくびく、きょろきょろしてる。こどもを持ってる人なら経験があると思う。子どもが騒いだらどうしようって。子どもが泣くとうるさい、うるさいと黙らせろという視線が飛んでくるのが怖い、だから、電車の中では、もののわからない赤ちゃんでも何とか黙らせなきゃいけない。
赤ちゃんならまあ仕方がないとしても、幼児が乗る。幼児はうるさい。電車に友達同士で乗せたりなんてしたらもう最悪です。
けれど、どうしてうるさくなっちゃうのかというと、それは、子どもだから。
子どもは大きい大人じゃない。大人がいくらいいきかせたところで、子どもは、大人と比べたら、我慢ができない。
子どもは動かないことができない生き物で、抑制されることが健全な状態ではない生き物。だけど、電車の中では黙って静かにおりこうさんに座ってなければならない理由は、「公の場だから」

大人が多いのはないでしょうか。
電車の中という世界は、子どもの数と大人の数、比べたら、圧倒的に大人が多い。時間帯にもよるけれど、八割以上が大人、そして「子ども」の中でも、まだ我慢がきかない、うるさい年代の「幼児」だけに限定したら、多分全体の一割もいない。3%に満たないのでは?
それゆえに、「子ども」っていうのは、電車の中で、超マイノリティな存在になります。

これが、もし割合が逆だったら?大人が一割しか乗ってなくて、子どもが九割だったら。
電車の中は、うるさいのが普通になると思います。
本来、子どもが電車の中で騒ぐのは、親のしつけがなってない、などという問題ではないと私は思います。子どもが子どもであるというのはそういうことです。
ただ、今、社会的に、それはゆるされていないようです。

その、大人ルールを子どもが守らなければならないのが、高級レストランの中、とか、そういう非日常の場であれば、そういう機会があってもいいでしょう。
けれど、電車は公共の乗り物です。大人にとってそうであるように、子どもにとっても。
徒歩で移動ができない場所に、車などを使わずに行くには、電車にのるしかありません。どこに行くにも運転手付き、というような、よほどのお金持ちとかではない限り、電車に乗るというのは、普通の人なら避けて通れないものです。
そんな誰でもが移動のために必要とする場所に、子どもが存在をゆるされないということは、問題ではないかと思うのです。
電車の中は、静かに本を読みたい人だけが来る図書館でも、高級レストランの中でも、お葬式の最中でもない。
最も多くの人が使う、ポピュラーな「移動のための場所」なんです。

上に書きましたように、少子化というのは、子どもという存在が、世の中のマイノリティになってしまうということです。
反対に今、増えてるのはどの年代かというと、老齢化社会と言われているように、老人です。
平成16年度の統計によりますと、0~14歳の人口構成比が13.9%なのに対し、65歳以上は19.5%。既に、子どもよりも老人の方が多いわけです。
先日、セクシャルマイノリティ、いわゆる同性愛者について、いろいろと調べたときに知ったんですが、「世界が100人の村だったら」によると、異性愛者が85人、同性愛者が15人だそうです。統計とそんな本とを並べるなと言われそうですが、私の頭の中のソースが今はそれなので、そこは大目に見ていただくとして。
そんなわけで、日本だけに限っていえば、子どもは13人。同性愛者よりも子どもというのは珍しい存在であるということです。
同性愛者である友人は、自分が社会的にあまりに少数派であることについて、傷ついて悩んでいました。知人にそういう人がいなくても、セクシャルマイノリティであることがどんなことであるか、それが社会的に少数であるために、隠さなければならないことや、理解されないことが多々あり、珍しがられることも当然あるし、迫害や差別を受けることもある。そういった事実は、多くの人が想像できると思います。
その方々よりさらに、「子ども」というものは少数派であるわけです。

公園で、子どもが花を摘んで遊んでいたり、木に登っていたりすると、それはしてはいけないことだ、迷惑だ、と言われる。これはよくあることなので、いつの間にかそれが常識的なことだと思われるようになり、多くのお母さんは、公園で自由に木に登らせたり、花を摘ませたりすることはあまりないのではないかと思います。
それだけではなく、今は、公園で子どもが遊んでいると、「静かに公園を散歩したい老人もいるのに、うるさい」などと言われることがあるようですし、そこまで極端じゃなくても、ボール遊びが禁止になったり(これが大人の都合で成されていることはわかりますね)子どもたちが閑静な住宅街の中の公園でわいわい騒いだり、まして普通の公園でプレイパークを開催しようとしたら大変なことになるのが常です。
地域の中で、子どもたちの遊びや、健全な育ちを保障しようとする人たちを迫害するのは、いつも、「静寂を求める付近の住民」だったりするわけです。その声に立ち向かうのは並大抵のことではない。子どもの側はいつも不利なのです。

これが、子どもが少ないということ。
もしも子どもの占める割合がもっと増えれば、おとな達の「世の中どこもかしこも静かにしろ、うるさい子どもたちはしかりつけるか押さえつけるかして静かにさせるか、どこか騒いでもいい場所に閉じ込めて、そこで騒がせろ」(極論ではありますが、自分たちの生活圏から子どもたちを排除しようとする大人の言い分は、そういうことではないでしょうか)という声が今度は少数になり、世の中の常識が、子どもに優しくなるのではないでしょうか。

少子化問題といいますけど。どこもかしこも、取り組み方がとんちんかんなのは、何のために少子化という現象が問題とされるのかがわかっていないからなのではないでしょうか。
たとえば、お金がもらえれば子どもをいくらでも産めるのか。
もちろん、子どもを育てやすくなるでしょう。そのおかげで、子どもを産める人は増えるでしょう。ただ、民主党が打ち出している、子育て支援26000円とかでまかなえるものではありえない、ほんとうに子どもを育てることをお金で解決するのなら、一千万単位のお金が必要でしょうね。
だけど、仮に子どもを育てるのにほんとうに不自由のない額をもらえたとしても、きっとそれだけでは解決しない。
(大体、もっと子どもをたいせつにする国だったら、子どもを育てるのに個人がそれだけ負担しなければならないような世の中になってしまう政治はされてないけど)
こどもを持つ母親が、世の中のマイノリティであるということ、遠慮しながら生きていかなければならないという身分である世の中では、やはり子どもは育てにくいのです。
だって、こどもさえ持たなければ、自分は大多数の側に属せるわけですから。
今の世の中の価値観では、数=力=正義、になりがちです。
だから、子どもが少ない世の中では、子どもがいる=少数派=悪、なのです。だから、子どもは多数派に迷惑をかけないように監視されなければならない。
こどもを持った瞬間から、母親たちは、多数派に遠慮しながら生きていかなければならなくなるのです。

極論だけどね。

だから、少子化対策っていうものをするなら、そこのところをやってほしい。
子どもと、子どもを持つ母親が、後ろめたさをおぼえないで、子育てをできる環境をつくる、そういう政策を出していってほしい。
子どもが子どもらしく生きていくことが、後ろめたくないように。

そんなふうに、私は考えています。


お気に入りのサイト 「心が大事」

今日は紹介。トラックバックというものをはじめてやってみる。あってるのかなあ。
私が最近日参しているブログサイトです。

心が大事

村松恒平さんという、編集者の方のブログなのですが、この方のメルマガは大変、大変に面白くて、私はもう数年購読しています。
文章を書くにあたって、いちばん参考にしてきたのが、もしかしたらこの方のメルマガかも知れません。
本も出版されていますが、これも大変面白いのです。

もしも、このサイトを見ていて、プロの小説家になりたいと思うのであれば、サイトだけでも是非一度見てみてください。

文章学校

メルマガ:
『プロ編集者による 文章上達スクール』



というかですね。私は、文章を書くっていうのは、表現するっていうのは、自分の心と向き合うってことだと思っています。
この方の文章は、小説を書くことについて教えてくれるわけではなくて、その、向き合うべき「心」っていうものがどんなものなのかを教えてくれる、貴重なものだと私は思います。
小手先の技術で書かれたものは私は読まない。
文章という道具を使って、心を震わせる何かに触れるために、私は小説を読むんです。
なので、このブログの、「心が大事」っていうタイトル。なるほどなあと思いました。

心が大事です。